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うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー총 (20) 개의 댓글
それが最もよく表された劇場版第2作目。
押井が今のスタイルを確立した出世作であり、押井の傑作の一つであり、日本アニメーションの名作。
しかし、『うる星やつら』としては…、異色作。
高橋留美子が押井の才能は絶賛しながらも、作品には否定的な意見を述べたのは有名な話。
友引高校学園祭前夜。
連日泊まり込みで準備に追われるラムやあたるたち。
しかし、次の日になってもまた次の日になっても“明日”が来ない。
一体いつになったら学園祭の“明日”が来るのか、自分たちは一体いつから泊まり込みをしているのか…?
ようやく異変に気付いた一同は町から脱出しようとするが、何故か友引高校に戻ってしまう。
面堂の飛行機で何とか脱出。
空から見た驚愕の光景とは…!
本作は2つの概念に大胆に切り込んでいる。
まず一つは、時間。
年、月、週、日、時、分、秒…。
そもそも、時間って?
朝が来て夜が来て、日本には四季があって、それで時間や時の流れが何となく分かるとしても、そんなの誰が決めた?
それ以前に、時間という“もの”は存在するのか?
例えば、今日2月12日。今午前10時過ぎ。
これは本当に正しい時間なのか?
日付や時間がそう決められているから、皆そう思っているだけ。
時間なんてものは何処かで誰かが作ったに過ぎないもので、実際は時間なんて概念は存在せず、ただ延々と同じ時が流れているだけではないのか…?
そして、夢。
あたるたちが見た光景とは、巨大な亀の上に乗った友引町。
誰も気付かなかったのも無理はない。
劇中で何度も比喩されてる通り、全員が亀に乗って竜宮城に誘われたのだから。
全ては、夢邪鬼という妖怪の仕業。
いつの間にか、夢邪鬼が創り上げたある人物の夢の中に居た。
この楽しい時が永遠に続いて欲しい、そう思ってるその“ある人物”とは…。
ここでまた一つの概念に頭がくらくらと揺さぶられる。
夢。
夢は本当にただの夢なのだろうか?
私たちが生きる現実こそ虚無であり、自分の望みが溢れた夢の世界こそ自分自身の世界なのではないのか…?
“時間”と“夢”。
この2つの当たり前のように思われてる概念を、根本からひっくり返すように問い掛ける。
考えれば考えるほど頭がこんがらがり、分からなくなり、ショート寸前になりそうになるが、疑問や問い掛けや考えは無限に広がる。
難解な押井守の世界。
他のアニメでは絶対出来ない、これも『うる星やつら』という変幻自在なアニメだからこそ出来た世界。
『うる星やつら』を通して自分の世界を創り上げた大胆さに改めて感心させられる。
遊び心もいっぱい。
てんやわんやの学園祭準備中の校内に、様々なキャラのコスプレが。
これは挙げたらキリが無いので、見る機会があったら是非チェックを。
廃墟と化した友引町でサバイバルするあたるたち。そんな彼らが観る映画は、あの名作!
画のクオリティーも見事。
特筆すべきは、あたるの家でご飯をかっ食らうシーン。
全員が違った動きをする僅か1分ほどの長回し。
一見何でもないようなシーンだが、相当緻密な書き込みと力量が問われた名シーン。
緻密であり、終盤あたるが何度も何度も迷い込む夢のシーンはシュールでありイマジネーション豊かであり、クライマックスは壮大なスケール。
内容的にも作画的にもめくるめく。
これは、『うる星やつら』である。
異色の『うる星やつら』である。
ディストピア・ムービーである。
サバイバル・ムービーである。
ミステリアス・ムービーである。
“時間”と“夢”の哲学ムービーである。
ハイテンション快作ギャグアニメである。
ラムとあたるのロマンチックなラブストーリーである。
そして、唯一無二、夢幻の押井守作品である。
映画史に残る名作だと思います。
映像の美しさ、荘厳なBGM。ストーリーも「独創的」と言うだけでなく、2回転調を行うことで鑑賞者を飽きさせることがありません。難解に成り勝ちな押井ワールドも、個性豊かなうる星やつらの面々が演じることにより、絶妙に中和されていると感じます。
そして、最後のエンディングで「謎かけ」を放り込むオマケ迄つける周到さは、流石としか言いようがありません。
1984年は、アニメにおいてエポックメーキングな年だと思っています。このビューティフルドリーマーとナウシカが劇場公開された年だからです。この2作は、映画専門誌の「キネマ旬報・読者投票」でナウシカが1位、そしてビューティフルドリーマーが7位にランキングされました。格調高き映画専門誌の読者に2作も認められたことは、アニメの認知が一般社会にも広まったことを証明したと思っています。
そして、前評判が高くアニメファン以外からも注目度が高かったナウシカは兎も角、オタク向けと思われていたビューティフルドリーマーが高く評価されたのは、そのままこの作品の完成度の高さの証左だと思っています。
原作はおろかTVアニメ版も殆ど観た事が無く、実はアニメ自体が無知蒙昧なジャンルではあるものの自宅にて鑑賞。難解なモチーフをクール且つ可愛らしい絵柄で見せる。主観性と客観性、或いは時間や空間、意識の共有、心象面・物理面を含めた他者との距離感、自我に寄ったそれらの産物と云ったテーマが描かれ、“タクシー運転手”が“サクラ”に語り掛ける科白にそれらが凝縮されている。度々登場する「浦島太郎」における仮定のエピソード、云う迄もなくそこに本作の肝がある。好みの噺でもあるが、なるほどよく出来ている、存分に愉しめた。75/100点。
・夜半にのっぺらぼうのチンドン屋一行は正に悪夢で、ここのみでも立派なホラーシーケンス。このチンドン屋にも同行し、他にも現実が巻き取られる様な様々なシーンに登場するつば広帽子にワンピースと白で統一された衣裳を纏う少女が奇妙な存在である。ラスト近くで明かされる彼女の素顔(正体)は意外に思えたが、シリーズの他作を知らないので、詳細はお詳しい方にお任せする(ちなみにこの少女とフランケンシュタインと云う構図は『ミツバチのささやき('73)』そのものである)。本作の元となるシリーズの世界観やキャラクターの詳細、原作等を殆ど知らないが、この少女は有名なキャラクターなのだろうか。公衆電話を含め一斉に鳴り出す電話も気味が悪い。それらとは対照的に路地裏で大量の風鈴が横切るシーンや手掛かりを求め迷路じみた夜の校舎を探索するシーン等は幻想的である。
・同じ一日がリピートされる中、街中の人が消失すると同時に街が退廃して行く設定が興味深い。無限に繰り返される現実は本作以降、多数のフォロワーを産んだと思われるが、本篇内でも触れられる通り、古くは荘子の記した私は蝶になった夢を見ているのか、それとも人を夢見た蝶なのかと云う「胡蝶の夢」であり、このテーマや疑似体験・仮想現実、模造記憶等を手を変え品変え書き続けた感のあるP.K.ディックの「虚空の眼('57・他人の夢の共有と云う設定は本作と全く同じ)」や「時は乱れて('59)」他、彼の諸作を想起した。
・ネタバレとして、第三者による環境下でのコントロールされた日常生活と云う世界観や設定は、『新・世にも不思議なアメージング・ストーリー2('88)』に収録されている『シークレット・シネマ "Secret Cinema('86年4月6日米国TVにて初放送)"』、『トゥルーマン・ショー('98)』、『エドtv('99)』、『ダークシティ('98)』、『シグナル('14)』等に酷似している。
・本作はTVシリーズの一エピソード、'83年7月27日放送された第101話『みじめ! 愛とさすらいの母!?』が元ネタであると脚本を兼ねた監督が認めている。尚、TV放映当時、制作側から虚構と現実を往き来するこの様なのは二度とやるなと釘を刺され、大目玉を喰らったと監督は回想している。
・監督が絵コンテをきっている際の仮題は"Forever Dream"であり、製作時には"Remember Dream"と呼ばれていた。“サクラ”が“面堂終太郎”と“諸星あたる”を呼び出す際に宛てた手紙にある「ありおり侍りいまそかり(そもそもは古文におけるラ行変格活用の暗記法)」と云う文面は、小松左京が書いた「明日泥棒」に登場する“ゴエモン”の口癖から引用したらしい。
・本作のタイトルはスタッフロールが始まる直前迄表示されず、更にそこで写される校舎に在る時計台はロールが終了し、BGMがフェードアウトする中、画面が暗転する迄、チャイム(鐘)を鳴らし続けている。
・本篇前に表示されるロゴでも判るが、本作の権利は東宝が所有しており、その関係で劇場でかかっているコンテンツ(メタ的な劇中劇)の一齣や準備される学園祭のコスプレ、張りぼてとしてかの“キング・オブ・モンスターズ”やウルトラマン、バルタン星人、ピグモン、カネゴンと云った円谷のキャラクターも顔を出している。亦、シリーズ中、当時米国で唯一リリースされなかった一本(東宝が米国の上映権も所有してた為)であると云う。
学園祭の前日が永遠に繰り返されるラムの夢は比喩的に言えば、うる星という作品の無限ループ構造そのものであり、同時にあたるを胎内に閉じ込めようとするラムの欲望である。
ラムの夢の世界を内破し現実に帰る方法は、あたるがラムに告白し「責任を取る」しかない。けれどもそれは、それこそ永久にラムの体内に閉じ込められることになるパラドックスでもある。
ここで示されているのは内破の不可能性を承知の上であえて内破を試みなければならないという一種のアイロニズムである。そしてそれこそが80年代的「終わりなき日常」における一つの倫理的態度だったのかもしれない。
押井守の独自解釈を前面に出しすぎて、原作者高橋留美子を怒らせたという伝説の作品。
私はうる星やつら世代ではなく、むしろはじめてちゃんと視聴したうる星関連作品が本作だったので初見時にそれほど違和感はなかったです。
冒頭から終盤まで印象的なシーンや掛け合いの連続で、ノスタルジーを感じさせるBGM(特にメインテーマ:モチーフ「不安」)も相まって、鑑賞後にはいつも感傷的になってしまいます。
終わらない文化祭前夜という舞台も、切なくもあり楽しくもあり、最高の作品だと思います。